ミラクルクリームソーダ

いい加減にしてください

馬鹿げている

至極まともで真面目で、何不自由なく育ててくれた両親がいて、仲の良い弟がいて、良い親戚もいて、恋人はいないけど信頼できる友達がちゃんといて、今の職場はみんな優しくて、私の言葉や歌を良いと言ってくれる人がいるというこの幸せを受けて、私は自分に絶望する。

貯金などほぼないし、なんなら大学生の頃より余裕ないし、同級生との収入格差は開くばかりで、遊ぶたびに少し苦しい気持ちになる。けれど、毎日仕事に行き働くことができて、月給を得ている。親の仕送りはもうもらっていないし、東京で自立して生活している。充分なのではないか。客観的に見て、これは充分よくやっているのではないか。それでも私は自分に絶望する。

与えられているものに対して自分は同等のものを返せていないということが情けなくて耐えられなくて泣いてしまった。テレビすら黙ったままの無音の部屋の真ん中で、今の己の存在価値を問うて悲しくなってしまった。

いてもいなくてもいいような今の私が割りに合わずこんなにたくさんのものをもらっているのに、私はそのひとりひとりに何を返せたというのだろう。これから返すんだよ!とかそういうことじゃないんだ。現時点でもっと返していなければならないんだ私の自己基準において。私は何をしているのだろう。大きな幸せを享受するとその裏側で「もう失われてしまったあの人より私は真っ当に生きているのだろうか、この幸せを受けるだけの資格が私にあるのだろうか、生き残るべきは私でよかったのだろうか」がずっと渦巻いている。多分間違っていないし、十分に真ん中を歩けているはずなのに、なぜこんなにも絶望してしまうのだろう。なぜこんなにも自分を締め付けているのだろう。心底馬鹿げている。

跳べそうなハードルから順番に跳んでゆけば良いだけなのに、なぜ私は常に今の身の丈以上のハードルの前に立ってしまうのか。現時点跳べる見込みのないハードルに無謀にぶつかっては見事弾き返されて落下した地面で"跳べない、跳べない"と泣いている。馬鹿げている。というか馬鹿である。それは気付いているのだ。

 

完璧じゃない自分に耐えられない。

学校の課題も芸術作品もいつだって今作れる最高の状態で提出できなければ許せないし、もらったものと同じだけのものを返せないと耐えられない。相手がどうこうではなく自分が耐えられない。許せない。人への恩も同じ。自分が許せない。こんな思考回路の人間が永遠に完全や完璧などといったものに到達できない、正解も頂点もない芸術という枠組みで戦うことを選ぶのは最も地獄な道だと思うし、違う選択肢をとれるのならとっくにそうしていた。私に他の選択肢は見つけられなかった。だからやるしかないのだけど、そこに溢れる不完全に耐えられない。ひと匙でも疑いを掬ってしまったらもうそれを信じられない。無謀な完璧主義に対して勘違いする能力あるいは根拠なき無敵感のようなものが割に合わず私は私を殺したくなる。

大切に大切に育てていたものがある日突然可愛くなくなって殺してしまったり、お墓を掘り起こしたら素敵なゾンビが出てきたり、当たり前だけどなにひとつ理論も筋も通らない。二択で言うのなら多分私には向いていないことなのだろうと思う。

 

「それでも。」

と思うのは、やりたいというより出来るようになりたいからだ。惜しみない恩返しをするために。これが出来るようになった自分は結構面白いんじゃないかって、それだけは思うから。自分を許せるようになるために自分を許せない毎日を重ねるなんてどんなパラドックスだよと思うけどマジで無理なんだ、許せる未来が存在すると信じないと。

その考え方で生きるのしんどくない?疲れない?大変じゃない?めっちゃ言われるし、自分でも本当に損な性格だなと思うけれど、少なくともバカではなくて良かった。人として。高密度な人間でありたいのだ(物理的には軽くなりたい)。

 

生きれる分はしっかり生きていこうな。