ミラクルクリームソーダ

いい加減にしてください

オタク(体質)であること

オタク(偏愛)というものはそう簡単に辞められるものではないのだな、と痛感したサマーバケーション前半戦であった。本当は何千字もかけてクソ細かい感想を書いたりツイッターに荒ぶる投稿をしたいんだ、でもそれはもうやらないんだ!!!(ってことをわざわざ言うからダメなんですよ)

 

「オタク」という言葉やその定義は昨今かなりゆるくカジュアルなものになっていると思う。

私が記憶している限り「オタク」というものが世間に広まったのは 電車男 のときかな?と思っているのだけどどうだろう?違うかな?あの頃の「オタク」といえば、いわゆる秋葉原系の、萌えアニメ?の類のイメージが強かったし、シャツイン上げパン上げリュックにメガネスタイル!みたいなビジュアルイメージがすごかった。(地味にウケるのが言葉で並べるとこのオタクスタイルがいまオシャレとされてるファッションとどん被りしているところ。所詮着る人なのかい。流行なのかい。そうなのかい。) あんなんおるかい!と当時小学生の私は思っていたのだけど、今は無き「やたら魚臭い仙台のアニメイト」に行った際、毎度1人はあのスタイルのオタクさんがいたので マジでおるー! って感動した記憶がある。(ちなみに私の来店理由は主にハガレンやナルトのグッズだった。)

最近の「○○オタク」という括りの対象は本当に多種多様で、アニメや二次元に限らず「○○をこの上なく偏愛している」は大方オタクとして括られているのではなかろうか。こちらから探さずとも、アイドルオタ、ディズニーオタ、フィギュアスケートオタ、などなどいろんなオタクが私の周囲には生息している。その熱量たるや凄まじい。私自身はハガレンやナルト、テニプリなどをやや拗らせた漫画オタ(この頃特に妄想癖もすごかった)、男子バレーオタ、サッカーオタなどを経て現在に至っている。過去にハマっていたものも飽きたわけではないので、漫画作品は今も変わらず好きだし、スポーツも中継があれば見るし、ハマっていた頃に細かいルールや選手を覚えまくっていたので、その知識で今も楽しめる。あるあるだけど、サッカーのオフサイドとか特にわからなくてめちゃ研究した。現在の事情は黙っておく。

話を戻す。オタクというものの定義が広がり生活に溶け込んでいる今、「逆にオタクじゃない人ってどんな人なんだ?」と思ってくる。身近にいる人で考えてみる。文字に起こすとめちゃディスりみたいな文面になりそうだけど悪意はないので許してほしい。(基本的に私自身の感覚を軸に書いてるのでわしは違うとか言われても何も言えない)

なんとなく、非オタクは基本的に「時代適応体質」だなぁと思う。ものすごい速さで回る流行りものを掻い摘んで乗りこなしている。これ、すごいことだと思う。あかんオタクは割とこれできない。少なくとも私はできていない。恐らくこれを乗りこなしている人は「世間の流行」と「自分の流行」のバランスをうまく取っているのだけど、オタクはあからさまに後者に偏りがちなので、非オタクといろんなところで噛み合わなくなる。最たるものはカラオケだろうけど、もっと大きい話で言うと、金銭感覚とか、感動指数とか、あと恋愛観とかも大幅にズレがち。マジで合わん。いや別に合わなくていいんだけど、それでその場の空気が変な感じになるのとかすごいヤダ。笑

いろんなラーメン屋を1回ずつ訪ねているタイプと、気に入ったラーメン屋に何度も並び続けるタイプってことかなぁ。などと考えると、やはりどちらが正解とかはないなぁと思う。(ラーメン屋巡りのオタクもいるだろう!という意見もあると思うけど、そこまで言わしめる人は大抵麺やスープ、系列・暖簾分け等々の知識も半端じゃない。ここではそうじゃなくて、ただ有名なラーメンを食べて回るライト層みたいな意味合いで書いている。)

 

正解はないという大前提のもと、私個人の考えとして、「オタクな人生」か「オタクでない人生」ならば、前者でありたいなと思う。そちらに価値を感じる。流行りものを掻い摘み続けたとして、そのひとつひとつの記憶ってどれだけ残っているのだろうか。インスタグラムが廃れたら、何が残っているのだろうか。私はいつも何かにのめり込み続けたい。どこかでその対象が変わることがあっても、そのひとつひとつに今の全てを注ぎ込んで愛したものの記憶は絶対に消えないと思うから。そして、何かにどっぷり浸かってる人の目はとっても生き生きしている。アイドルのライブに行ったあとの友達に会うと生命エネルギーが+100くらいになっていて、(素面の私には少々受け止めきれないのも事実だけど)とっても素晴らしいことだよね〜!と思う。ひとりひとりにこのエネルギーを与えているアイドルもまた凄まじいのだけど‥。

 

類は友を呼ぶというのは本当で、無意識にそういう友達ばかりの中で生きてきたけど、環境が変わったりする中で「そうではない人」にも出会うようになって、そういうことを考えるようになりました。という話でした。

何でもいい、愛するものや人に対して、自分に何が出来るのだろう、何がしたいのだろう、どんな存在でありたいのだろう、そう考えながら生きる毎日は尊いと思います。

 

私はイヤホン越しに何千回も失恋し続けていますが元気です。今日も生き延びような!